本当の私

こんにちは。

 

もうすぐ新学期が始まってしまいますね。卒論と就活を同時にこなさなくてはいけない私は鬱でしかありません。早く夏が来ないかなあ。

 

さて、先日とある会社の人事面談で「本当の私」について言及され、私は涙を流し、たくさんの事を考えました。今回はこれについてお話します。長くなりますがご了承ください。

 

その人事の方は本当に鋭い方でした。履歴書を見てもあなたの本当にやりたいこと、望むことが見えてこない。人のために働きたいと言うけれども、自分のためには何がしたいのか、という質問から面接は始まりました。以下はその返しを含む内容です。

 

私は自分のためにしたいことはありません。自分がこうして楽しい、と思えることが自分の中で本当に見つからないのです。お金が欲しい訳でも名声が欲しい訳でも何でもない。何に喜びを感じる訳でもないから、せめて自分の働きかけで人を笑顔にする事が出来ていると実感したら、生きている意味を見出せるのではないか。そう考えています。

 

では何故このように考えるようになったのか。それは私の育ってきた過程にあります。

 

勉強もピアノも出来てすごいわね、本当にしっかりしてるよね、、昔から周りの人は皆、私にこう言いました。才能があった訳でもなく、しっかりもしていなかった私はその人達の思いを裏切ってしまう事を恐れ、自分を必死に繕うになりました。勉強は必死で頑張って進学校にいけるように努力しましたし、部活のキャプテンや学級委員長、学校行事の実行委員長等を任され、その度にプレッシャーに負けそうになりながら毅然と振舞っていました。なんだ、こんな子なんだ、とがっかりされたくない。その思いで一心でした。

 

家の中でも、反抗期やその他の失態は何度かしたものの、母が姉に手を焼いている姿を見て、私がこれ以上迷惑をかけまいと我慢し、母にいい顔をして本当の自分を曝けだせなくなりました。不器用で弱かった姉に対して私は要領よく強く生きていける子。そう母は思っていましたし自分でも自分にそう言い聞かせていました。実際は体質もあって精神的に病みましたし、もっと自分の方を向いてほしくてお風呂でポロポロ泣く事もありました。それでも本音は言い出せず今の今まで生きてきて、姉と私の家族内の立場は変わりません。

 

改めて思い返すと苦しいです。家族にはもちろん言えず、親友と呼べる友達はいませんでした。どんなに仲が良くても、自分の弱いところを見せるのが怖くて、がっかりされるのが嫌で、当たり障りのない悩みや人生の話は出来ても自分の本質の部分について話すことは出来ませんでした。

 

自分の主張を殺して周囲を気遣うようになった結果、私は空っぽの人間になったように思います。何したい?何食べたい?と聞かれても「何でもいい」以外に答える事は滅多にありません。時々「たまには決めてよ」と言われることもありますが、長年の習慣で欲が湧き上がらなくなった私には、突然欲を出せと言われても無理な話なのです。前回お話した「自己犠牲による自己満足」も根本はここにあるのだと思います。

 

ここまでお話したことが「本当の私」です。

 

「このままずっと自分を抑え続けて生きるのも一つの選択だと思うし、それを変えれるようにするのも一つの選択だと思う。でもさ、もう我慢しなくていいんじゃないかな」

 

人事の方にこう言われ、今まで自覚有る無しに関わらず色々なことを我慢してきた自分を初めて人に見つけてもらえたように感じ、その時私はたくさんたくさん泣きました。

 

生き方は変えられないと思います。自己主張の仕方は忘れてしまったし、今ではそれが当然となっているのでしんどいと感じることもありません。しかし、本当の自分を知ってもらっていたらまた違うのかなと思い、どういう背景から今の自分がいるのか話してみることにしました。そういうわけで今パソコンと向き合っています。

 

面接を終えて、私が自分のために望むものは「幸せ」なのではないかという結論に至りました。今まで家庭でも学校でも極力自分に向かないように努力してきたベクトルを自分に向けてくれる人がいたら、きっと幸せを感じられるのではないかと思います。簡単にいうと愛されたいということです。自分の想う気持ちが、他でもない自分自身に返ってくるということは本当に本当に幸せなことなのだろうなと、改めて思いました。

 

人に今まで話さなかったことを今こうやってお話したので皆さんにどのように思われるのか正直不安です。こんな私ですが、受け止めいただき、今後もお付き合いいただければ本当に嬉しいです。

 

以上、強がりで寂しがりな私の本質のお話でした。

おしまい。