「死にたい」と言えること

おはようございます。お久しぶりですね。

近頃思考する事さえ面倒になり始め、現実逃避しておりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、今回は「死にたい」という言葉について少し。

 

何をきっかけで思ったのかは覚えていないのですが、一ヶ月ほど前から「死にたい」という言葉について考えていました。本当に死にたいと思った人は誰にも何も言わずにただスッと死ぬと思うのです。あ、死のう。っていう具合に。でも「死にたい」と言う人が次の日本当に死んでいる事ってなかなかありませんよね。私は「死にたい」という言葉の裏には「助けて」という真の叫びが隠れているように感じます。この世の全てに絶望しているならば助けを求めることすらしないでしょう。ただそこにほんの少し死にきれない理由、生きていたいと思う存在があるから、誰かに手を差し伸べて欲しい、解決する緒を一緒に見つけて欲しい、そう思って誰かに言葉を発するのではないでしょうか。

 

ここで聞き手の対応はかなり重要です。その聞き手に対する話し手の期待度にも左右されますが、助けてくれると信じた相手が助けてくれなかった時、彼らはいよいよ生きる理由を見失い口を噤んで命を絶ってしまうことになります。

 

つらいことに変わりありませんが、「死にたい」「苦しい」といった言葉を人に発することが出来るのは最小限の幸せをまだ手にしている状態だと私は思うのです。

 

人は後悔して学ぶ生き物です。浪人してしまったから本気で勉強しますし、自分の失敗があるから真に人を愛することを知ります。死は人間の生命活動の中で唯一学びを得る事が出来ないもので、「死ななけりゃよかった」なんてことはありえません。

 

「死にたい」と思っている状況は当人からすると絶望の底です。ただ、問題解決、解決困難な問題を越える幸せの発見、状況脱却までの我慢...色々な方法があると思うのです。もし「死にたい」と言っている人が近くにいるのなら、耳を傾けてください。もし「死にたい」と思っているなら、それならどうして今自分が生きているかを考えてください。

 

「そもそも、生きる上で嫌な事の方が圧倒的にいい事より多いけれど、もし幸せしかない人生だったらそれが幸せである事にも気付けないわけで、多くの嫌な事を乗り越えるからでこそ、少しの幸せを心から幸せだと思えるのではないかと思う」

「嫌な人生だと思っている人は人生の嫌な事に目を向けがちなだけで、ちょっとした幸せや嬉しいことに目を向けるように少しずつ頑張るとまた違った人生になるのだと思う。自分の人生だけが不幸なんてことは絶対にないはず」

 

何年か前の自分が残している言葉は正しいと今でも思いますし、これからもこの考え方は変わらないと思います。

 

苦悩と共にあるあなたの人生が今日もまた幸せでありますように。

 

いっつも話が逸れておわってしまいますね、構成なんて考えずに書いてるんだから知るかってんだ。

 

おしまい。