自己犠牲による自己満足

こんばんは。

 

就職活動とかなんとかかんとかでもう本当に辛い。漠然とした不安と闘う毎日を過ごしておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、前回記事を書き終わる時に決めた今回のタイトルはこちら、「自己犠牲による自己満足」。これまたTwitterでお馴染みの言葉かとは思いますが、どういう意味?と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。今回はこれについて少し。

 

私は自他共に認める自己犠牲型タイプの人間です。自分が少し我慢すればあの人は幸せになれる。とか、ここでこう働くことによって上手く回る。とか、自分よりも他者、それでいいんだ。そう考えて生きていました。ところが何年か前に私は友達にこう言われたのです。

 

「お前って、結局は自分を犠牲にすることで誰かを幸せにしたいとかそういうのじゃなくて、犠牲になってる自分に満足してるみたいな一面もあるんでしょ?」

 

はあ。当初はもう唖然とするというかバカにすんなよ貴様って思いましたし、本当にそんなこと1ミリも思った事がなかったもので何言ってんだこいつ?くらいの勢いだったのですけれど。その時から考え抜いてみれば確かにそうなのかもしれないなとも思い始めたんです。

 

未だに、「犠牲になっている私をみて!!!すごいでしょ!!」と思うことは全くありません。だって世の中犠牲はつきものですし、進んで犠牲になってうまくいくならそうするまでですし、私が失うものなんてたかがしれてますし。でも、周りの人間が犠牲になるやつがいて当たり前だと思うタイプなのか、なるほど君がうまく対処してくれてるんだねと思うタイプなのか、こちら側の人間にははっきりと分かって人間の本質に触れているような感覚になります。なので「さ〜て、誰が気付くのかね〜?」みたいな気持ちがないことはないです。気付いて声をかけてくれる人は人として美しい人だなという風に思います。犠牲がいて当たり前思考の人がでかい顔をしていたら「誰のおかげででかい顔してられると思ってるんだか。可哀想な人。」という風に思います。そういった意味で自分から犠牲になることでそういった評価の対象から外れ客観視出来る立場になるので、自己犠牲による満足感があるかもしれません。

 

自己犠牲とは人間として綺麗なようですごく汚い部分が見え隠れする瀬戸際なのでしょうかね。

 

もちろんいつだって私が犠牲になっている訳ではありません。私も自覚の有無に関わらず犠牲になっている多くの人の側を通って生きていると思います。気付かぬうちにでかい顔の立場になってることもあるでしょう。まあ色々あっていいと思うんです。それぞれの立場に立ってみないと分からないこともありますしね。ただし、一つの視点からものを見れなくなってはいけないですよね。世を上手く回すための役割がその時々であるんだということは知っておくべきだと思います。

 

話がだいぶ逸れてしまいました。思ったことをつらつら書く場所なのだから所詮そんなもん。

 

最後に付け加えておくと、そんな計算して進んで犠牲になっている訳じゃないので疑わないでくださいね。この話は考えてみて後からくっつけた理論的?な話であって、私は気付いたらあれ?なんか知らんけどしんどくない?なんでこんな頑張ってんだっけ?んん?みたいな感じのあんぽんたんなんです、基本。

 

皆様はどんなタイプの人間なんでしょう?自分の本質とじっくり向き合ってみるのも面白いと思うので、お時間ある時に是非。

 

おしまい。