大切な人

こんにちは。

 

皆様「で、で〜〜〜〜wwwwブログ書くとかいって3日坊主奴〜〜〜〜wwwwwww」と思われていたのではないでしょうか。違うんです。ブログはPCで更新したいという謎のこだわりのせいなんです。やっと相棒MacBookAirの元に帰ってきました。ただいま。

 

さて、今回は大切な人に関して少し。

 

突然ですが、皆さんは何のために生きていますか?

私は大切な人のために生きています。そして今はその大部分を家族が占めています。ちゃんとした職について安心させたい、花嫁姿を見せてあげたい、孫の顔を見せて喜ばせたい、そんな感じです。今家族が全員いなくなったとしたら死のうと思うかもしれません。

 

近頃実家に帰る度に考えます。人生のうちで祖父と出かけることが出来るのはあと何回なんだろう、父母と以前のように日常を共に出来るのはいつまでなのだろう、と。自分はいい年齢になっていく一方で、その自分を愛情を込めて支え育ててくれた人々は確実に老いていく日々が怖いです。大切な人が弱っていく姿を見るのも、突然いなくなってしまうのも怖いです。この世に生を受けた瞬間から皆死に向かって歩んでいると考えると人生は残酷な気もします。

 

人がいつ死ぬかなんて分かりません。「またね」と別れたその瞬間が最後になるのではないかと思うと場所に構わず泣くこともあります。考え過ぎる癖を本当にやめたい。

 

私は自分が生きることで少しでも大切な人に恩返ししていきたいです。今まで愛情をもらった分、今度は自分が与えていきたい。年老いていく家族のために自分に出来ることは何なのかきちんと考えられる大人になりたい。そう思います。

 

そして自分を育ててくれた大切な人の死を送り届けた後には、今度は自分が築いた家庭でまた大切な人のために生きたいです。これが、母親の強さに変わっていくのかな。

 

大切な人のために今もこれからも生きていきます。それが自分のためになるとも思っています。

 

次回書くことが今決まりました。この流れで次はきっとアレだな、と察することが出来る人は私マスターだと思います。笑

うまくまとめられるかなあ。お楽しみに。

 

おしまい。

見えなくなっていく

こんにちは。

 

今日は眼鏡を買いに行ってきました。15000円でした。びっくらぽん案件です。

 

さて、今回は目に関する話を少し。

 

目が見えていることって普段気にする要素にもならないほどに当たり前ですよね。でも、もしどんどん目が見えなくなって将来何も見えなくなってしまったら、どうでしょうか?想像がつくでしょうか?今日、私は目が見えなくなっていく恐ろしさを少し体験しました。

 

前回眼鏡を買ったのは高校生の時だったので今日は実に5年ぶりの眼鏡選びでした。まあご存知の方も多いかと思いますが私は強度の近視です。コンタクトの度数は−12.00。眼科の先生にもおお〜ツワモノだね〜〜〜と言われます。

 

誰がツワモノじゃい…

 

レンズを作るべくいざ視力検査に臨んだのですが、ここでまたもやびっくらぽん。片目ずつ隠して前を見ると見事に右目だけ全然見えませんでした。眼鏡をかけているのに、まるで右目は裸眼で見ているかのようにぼんやり。目が悪い方は分かると思うのですが、度が強いレンズを入れてもらうと視界がはっきりして「おっ、見えるぞ。」てなりますよね。私は今日それを一回も体感することがなく、「え、変わらない。見えない。」としか感じることができませんでした。その後も度数を上げながら右目の検査を続けたのですが、結局7段階上げても見える景色は変わりませんでした。

 

「これ以上度を上げると目が疲れて頭が痛くなることもあるでしょう」

 

最終的にそう言われ少し見えればそれでいいです、と肩を落としてお会計。もう、ショックの一言でした。

 

よく目が悪い子は本の読みすぎだとかゲームのしすぎだとか言いますけど、私は漫画もゲームも原則禁止の家庭で育った上、小学1年生の時には既に眼鏡をかけていました。眼科の先生曰く、遺伝に関係するのか等といった近視の詳細は実はまだ解明されていないそうです。

 

何でこんなに目が悪くなってしまったのだろう。この先どうなるんだろう。昔から目が悪いことはアイデンティティーの一つみたいにネタにしてきましたが、そろそろ本気で笑えない域まできているようで不安です。

 

当たり前が当たり前でなくなっていく感覚というのは、本当に怖いものです。特に視覚は情報の大部分を占めるものなので余計に怖いです。10年後鏡に映る自分の顔さえ分からなくなっていたらどうしよう。そんなしょうもないことまで考えてしまいます。

 

見えるうちに、見たいものを。

前向きに生きていかないといけませんね。

なんかツラツラと書いているうちにものすごいネガティブな感じになっちゃいました。最後だけでもポジティブにね。あ〜〜せめて自分が人生で一番綺麗な瞬間であろう花嫁姿だけはこの目で見たい。ブルーベリーにでも縋ろうかなあ。

おしまい。

明日の鶏より今日の卵

こんばんは。

一番最初に何を書こうかと迷っていましたが、今日は私が大分前からTwitterのプロフィールに書いている「明日の鶏より今日の卵」という言葉について少し。

 

そもそも「明日の鶏より今日の卵」という言葉はイタリアの諺で、「明日の100より今日の50」とも言うそうです。

 

鶏が生まれたらまた更に卵が得られるけれども明日本当に鶏を得ることが出来るかは不確実である。それならば今持っている卵を使ってしまった方が今を生きるためには確実ではないか。

 

戦争下のイタリアの町で、このような考え方の基この言葉は生まれました。まあつまりは不確実な未来より確実な今を大切にしよう、ということですね。私は翼の王国をパラパラ〜っと捲っていた際にたまたまコラムに掲載されていたこの言葉を知ったのですが、自分の考え方に似てるなあと共感したことを鮮明に覚えています。

 

どうしても人間、先があると思ってしまう甘い生き物なんですよね。まあもちろん、明日私は死ぬかもしれない…ああきっとそうだわ!!なんて常に考えてるやつがいたら病院行っておいでってなりますけど。でも一瞬一瞬を大事にするってものすごく大事なことだと思うんです。未来のために今があるという考え方よりも、今があって未来があるという考え方の方がしっくり来るなあ、と。

 

逆算は大事です。長期目標を決めたら中期目標を決めて、じゃあそのために今何が出来るのか考えることは仕事や勉強においては必要不可欠なんじゃないかと思います。しかし人の感情が絡んでくると少し変わるんじゃないかと私は思っていて。今感じたこと、今やりたい事っていうのはきっと「今」だからでこそなんですよね。そのフィーリングってとってもエネルギーを秘めたものなのではないでしょうか?

 

私は満足のいく今日、そして明日、明後日、、というように1日1日が繋がって気付けば素敵な未来がそこにある、と考えています。未来も未来になってしまえば「今」ですからね。、、、うーん、何だかややこしいなあ。

 

「明日の鶏より今日の卵」

 

皆さんも充実した「今」をお過ごしください。

 

おしまい。

ブログ、始めました。

こんばんは。

突然ブログなんか始めて何事??と今これを見ている方は誰しも感じることでしょう。何か変わったことがあった訳ではないのですが、自分の日常の思いを整理できる場所があれば良いなとふと思い立ち、キーボードをパチパチしているところでございます。

 

よくTwitterに分かるようで分からない呟きをするのですが、自分で見返してみてあれ?何のことだっけ?と分からなくなってしまうこともしばしば。今後このブログをどんな時に何を考えたのか、もう少し具体的に、でもあくまで抽象的に、まとめられる場所に出来たらと思います。一人でぶつぶつと思いを言葉にするだけですが、日記とはまた違うんですよねこれが。読んでいる方にとって共感することやプラスになるようなことがあれば嬉しいです。

 

更新頻度は、、テキトーですね。笑

人生の幸せな瞬間も死にたい瞬間も、多分更新します。

まあとりあえずは、テキトーに。

テキトーいずざべすと。

どうぞよろしくお願いします。