悶々悶々

お久しぶりです。

コロナウイルスによる緊急事態宣言の中、皆さまどのようにお過ごしでしょうか。

私は在宅勤務ですが、出勤していた時とほぼ同じ質で仕事ができています。

この状況が長引いても真っ先に首を切られる人材ではないことを願うばかりです。

 

さて、どんな風に記事を書いていたか忘れつつありますが、昨日とあることをきっかけに考えることがあったので、そのことについて書き残そうと思い、PCを開きました。

 

事のきっかけは私の彼氏が緊急事態宣言の最中、上司の誘いで飲み会に出かけると言ったことです。

行きたくはないけれど、仕事だから仕方がないとのことでした。

気にかかったことは2点です。

1つはこんな状況で飲み会を開く上司の方の責任の無さ、もう1つは誘いを断らなかった本人の決断です。

 

まず、上司の方について。

彼の会社は誰もが知る大企業で、入社するのも狭き門、出世するなら尚のことです。

上司の方は間違いなくエキスパートでしょうし、そこらの社会人よりもずっとずっと仕事が出来る方なのは間違いありません。

飲み会を開くのは自由です。ご自身もきっと無茶な飲み会を何度も切り抜けてこられただろうし、私の想像を絶するようなお酒の関係で仕事をされてきたのかもしれません。それでも、コロナでの自粛要請という特殊な状況で同じことをする必要があるのでしょうか。その上、今回の飲み会は緊急事態宣言から2回目なのです。

もしその場で集団感染等が起こった場合、会社のブランドがメディアで傷つけられたり、誘った社員やその家族にまで影響が及ぶ可能性があります。

部下を抱えて仕事をする立場にもかかわらず、マネジメント意識が低すぎると感じました。

どんなに仕事が出来て尊敬に値する人でも、私は今回の件でかなりの嫌悪感を覚えました。

私が知らないだけで、もしかすると世の中にはこのような行動をしている方が大勢いらっしゃるのかもしれません。そうなのであれば、狭い世界で悶々としてしまう私に、どうか世間知らずめと教えてください。上記に関しては半分は悪口な気もするので、誰かに怒られたいです。その反面、賛同してくださる方もほんのちょびっといたらな、なんて思います。

 

さてさて、次に彼の決断についてです。

まず大前提として、私は会社の飲み会に参加することは大賛成です。

それは新たな信頼関係やビジネスが生まれるチャンスがあると思うからです。

頑張る部下は気に入られるし、ふとした時に思い出してもらえるようになるでしょう。

しかしこれまた、特殊な状況下でも普段と同じくイエスと答える必要があるのでしょうか。

彼がこの飲み会にで生まれるチャンスを逃したくないのか、自分の居ない空間が出来ることを恐れているのか、上司の命令が絶対で断ることが出来ないのか。私には分かりません。

どの会社にも文化があります。そこに他人が口出しするのはあまりにも浅はかな行為であり、会社の文化というのはいわば部外者が踏み入れることのできない絶対領域です。それは私も一人の会社員として重々承知しています。

世は今、このような状況なのです。一人の会社員として決断をすべきなのか、一人の社会人として、あるいは一人の国民・人間として決断をすべきなのか、選択する必要があると思います。

彼自身が苦しんでいるのも分かります。しかし、そこでノーという勇気も、時に必要なのではないかと思いました。繰り返しますが、これは会社の文化に関することなので、私は飲み会を断って欲しいとは言えないし、彼が正しいと思って決断したことならば、頑張れ!と背中を押したいです。だけど、それでいてニコニコして背中を押してあげられるほど私は器が大きい人間ではありません。

 

もっと心に余裕があって、どんなことも深い愛で受け止められる、そんな人間になりたい。だけど、今の私にはまだまだ出来そうもありません。怒るし、悲しい気持ちにもなります。ただ一つ言えることは(屁理屈のように聞こえるかもしれませんが、)怒ったり悲しんだりしてくれる人がいることは自身の行動、考えを見つめ直すきっかけにもなると思います。誰にも何も言われずいると、思考が凝り固まって気付かぬうちに何かに染まってしまうこともあるからです。

怒る、悲しむ、絶対に間違っていることがあれば正す、そうでなければ受け止める。

このサイクルを自分の中できちんと確立していきたいです。

 

以上が昨日考えたことでした。

結局誰が悪いとかはないんですよね。彼の気持ちもわかるし、それでいて私が疑問を感じることも彼には分かると思います。強いて言えば上…いや、そんなことが言いたくてPCに向かっているわけではないのでした。

 

この記事を読んでる方々も、こんな御時世ですからくれぐれもお気を付けて。

離れていても皆で協力して、乗り越えましょう!

 

おしまい。

 

好き

超絶お久しぶりです。

これを更新してまだ読んでくださる誰かがいらっしゃるかどうかももはや危ういですが、とりあえず考えたことをタラタラタラとまた書き残そうと思いまして。

 

さて、本題なのですが。

いよいよ社会人一歩手前というところまできてしまい、考え方や悩みも変わってきました。最近感じた事としては、「好きだから好きな人と付き合う」という恋愛がだんだんできなくなってきているなということです。

 

なんとなく結婚を意識する機会が前より増えたのですが、そうなると「この人好きかもな」と思っても、この人と一生暮らしていける?相手の家族を尊重できるだろうか?子供の育て方できちんと話しあえるかな?年収は将来いくらくらいもらえる人なんだろう?お互いのことを考えて勤務地を変えてくれるのかな?…などなど

 

それはもう途方もないくらいの疑問が湧いてきて、なんとも言えない気持ちになってしまうのです。ばっちり全てが合う人なんてまずいないことに間違いないですが、出来るだけこの人となら、っていう人がいいと思うんですよね。人生のパートナー選びに妥協なんてしてられないですし。…となると、もうほんとに慎重になりすぎて、一歩も先に進めなくなるんです。誰かわかってくれー。

 

次付き合う人と結婚することになるかもしれないとか考えるからダメなんですかね?もう、本当に頭の中でぐるぐるぐる。

 

高校とか、大学の前半まではただ「好き!」って思ったらそのまま付き合って、学校ですれ違うだけでドキドキして、一緒にいられる時間全てが輝いてて…。

 

あの頃に戻りたい。先のことなんて何も考える必要がないあの頃に。

 

恋愛のことだけじゃなく、きっとこれから勤め先のカーストに苦しんだり、友達の前で見栄張ったり、もっともっとドロドロした部分に踏み込んでいくことになるんだろうな。

 

なんじゃかんじゃとぼやきながら5年10年過ぎていって、気付いたら独身貴族になっている未来に100万ペリカ

 

純粋に、

 

青春したいです。

 

 

おしまい。

ともだち

こんにちは。

最近忙しくて忙しくて泡を吹いて倒れそうな私です。

 

今回は「友達」についてのお話を少し。

 

ここ2週間のうちに親しい友人各々と食事に出かけました。現状報告とか、悩みの相談とか、他愛もない話とか、そんなこんなでどの友人とも楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 

その中の1人の友人から、誕生日だったし、ということで手紙をもらったんです。詳しい内容は伏せますが、その内容が、嬉しくて、嬉しくて。私のことをすごく考えてくれて、その思いを文字に起こして伝えてくれたことに感動せざるを得ませんでした。この手紙は、私の新しい宝物です。

 

友達って、誰しもたくさんいると思います。私にももちろん、一定数の友達はいます。だけど、そのうちの何人に自分の本質や本音を曝けだせていて、何人にそれを理解してもらえているんだろう。と思うと私は片手で数えても指が余るくらい数が減ります。

 

以前は広く浅い友達がたくさんいて、充実しているような気がしていました。去年の夏に自分の失敗で多くの友達を失うことになった時も、どうにかして体裁を保とうとして、必死に繋ぎ止めようとしました。でも失った後に気付いたことは、その友達が本当に自分にとって必要な存在ではなかったという事実でした。同時にその友達も、私がいなくなったことによって影響を受けるようなことはほとんどなかったと思います。なんだか皮肉な感じもしますが、お互い、その程度だったということなのでしょう。この時期を乗り越えて、考え方がかなり変わりました。

 

自分の本音を打ち明けられて、本当の自分を知ってくれている友達。数は少なくてもその友達を大事に、大事にしよう。たくさんの友達とは上手に、楽に付き合っていこう。今はこう考えています。

 

私は友達が大好きです。何か特別なことが出来るわけではないけど、困っている時には何かしてあげれたらと思うし、くだらないことを言って笑ってもらえたら純粋に嬉しいです。近頃、友達を遊びに誘う回数も少し増えてきました。前は気を遣って出来なかったんですけど、なんか、誘っちゃってもいいかな???って気がして。(笑)友達を遊びに誘うのが、苦手なんです。本当に。

 

この記事を読んでいる皆さんはみーんな、私の大事な友達です。一人一人、色々なタイプの人がいて付き合い方も色々だけど、みーんな大好きです。

 

いつも感謝しています。本当に、いつもありがとう。

これからもどうぞよろしく。

 

 

 

なんか、恥ずかしいね。最近の思ったことでした。おしまい。

一大決心

こんにちは。

今日は人生を大きく人生を左右する日になりました。

 

結論から先に言うと、就職先を決め、就職活動を終える事にしました。

来年からとある中小企業で働きます。

 

決断には様々な葛藤がありました。学歴を得た以上大手に行くべきなのではないか、家族全員が大手志向である中、自分が中小企業に決めたことで今後肩身が狭くなるのではないか、中小に入って収入や人生の差を感じ後々苦しくなるのではないか…考えれば考える程、大手に行かなくては!!という気持ちにもなりました。

 

しかし色々な話を聞いて考えていくうちに、大手に入って型にはまったレールを進むのもひとつの人生ですが、自分の道を探し求め自分でレールを敷いていくのもまたひとつの人生なのではないかと考えるようになりました。

 

学歴、ブランド、プライド、全てを捨てて戦おうとした時、私にはきっと何も残らないと思います。だからでこそ、裸の自分を強くして一人前になりたい。そう思ったのです。

 

大手にも苦労した中小の時代があります。例えばみんな大好きサントリー。いつも美味しい飲み物をありがとう。「私、サントリーに勤めてるんだよね。」と言われると十分すごいな〜となりますよね。でも「私、サントリーを作ったんだ。」と言われると更にかっこいいとは思いませんか?

 

弱小チームが強豪チームを倒すストーリーの方が苦労が多い分アツいくて面白い。それと同じです。アニメや漫画のようにうまくは絶対行きませんが、何かしらを自分で考え行動し、作っていきたい。その道はもしかしたら入社を決めたこの会社じゃ実現出来ないのかもしれません。それでも、追われるより追う立場の方がきっと見えるものもたくさんあるのではないかと思います。

 

後悔することもあるでしょう。先が見えずに落ち込むことも、もしかしたら会社が潰れることもあるかもしれません。それでもなりたい自分を探して、本当に充実した人生を見つけれたら幸せです。

 

ちなみに親は「ふーん。まあ、いいんじゃ。」という反応でした。つらい。

 

みなさん、どうぞ私を応援してください。メンタルが弱い私ですので、すぐに弱音を吐くのは目に見えているはず。よろしくお願いしますね。

 

とりあえず、ご報告と意思表明でした。

 

おしまい。

「死にたい」と言えること

おはようございます。お久しぶりですね。

近頃思考する事さえ面倒になり始め、現実逃避しておりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、今回は「死にたい」という言葉について少し。

 

何をきっかけで思ったのかは覚えていないのですが、一ヶ月ほど前から「死にたい」という言葉について考えていました。本当に死にたいと思った人は誰にも何も言わずにただスッと死ぬと思うのです。あ、死のう。っていう具合に。でも「死にたい」と言う人が次の日本当に死んでいる事ってなかなかありませんよね。私は「死にたい」という言葉の裏には「助けて」という真の叫びが隠れているように感じます。この世の全てに絶望しているならば助けを求めることすらしないでしょう。ただそこにほんの少し死にきれない理由、生きていたいと思う存在があるから、誰かに手を差し伸べて欲しい、解決する緒を一緒に見つけて欲しい、そう思って誰かに言葉を発するのではないでしょうか。

 

ここで聞き手の対応はかなり重要です。その聞き手に対する話し手の期待度にも左右されますが、助けてくれると信じた相手が助けてくれなかった時、彼らはいよいよ生きる理由を見失い口を噤んで命を絶ってしまうことになります。

 

つらいことに変わりありませんが、「死にたい」「苦しい」といった言葉を人に発することが出来るのは最小限の幸せをまだ手にしている状態だと私は思うのです。

 

人は後悔して学ぶ生き物です。浪人してしまったから本気で勉強しますし、自分の失敗があるから真に人を愛することを知ります。死は人間の生命活動の中で唯一学びを得る事が出来ないもので、「死ななけりゃよかった」なんてことはありえません。

 

「死にたい」と思っている状況は当人からすると絶望の底です。ただ、問題解決、解決困難な問題を越える幸せの発見、状況脱却までの我慢...色々な方法があると思うのです。もし「死にたい」と言っている人が近くにいるのなら、耳を傾けてください。もし「死にたい」と思っているなら、それならどうして今自分が生きているかを考えてください。

 

「そもそも、生きる上で嫌な事の方が圧倒的にいい事より多いけれど、もし幸せしかない人生だったらそれが幸せである事にも気付けないわけで、多くの嫌な事を乗り越えるからでこそ、少しの幸せを心から幸せだと思えるのではないかと思う」

「嫌な人生だと思っている人は人生の嫌な事に目を向けがちなだけで、ちょっとした幸せや嬉しいことに目を向けるように少しずつ頑張るとまた違った人生になるのだと思う。自分の人生だけが不幸なんてことは絶対にないはず」

 

何年か前の自分が残している言葉は正しいと今でも思いますし、これからもこの考え方は変わらないと思います。

 

苦悩と共にあるあなたの人生が今日もまた幸せでありますように。

 

いっつも話が逸れておわってしまいますね、構成なんて考えずに書いてるんだから知るかってんだ。

 

おしまい。

 

 

本当の私

こんにちは。

 

もうすぐ新学期が始まってしまいますね。卒論と就活を同時にこなさなくてはいけない私は鬱でしかありません。早く夏が来ないかなあ。

 

さて、先日とある会社の人事面談で「本当の私」について言及され、私は涙を流し、たくさんの事を考えました。今回はこれについてお話します。長くなりますがご了承ください。

 

その人事の方は本当に鋭い方でした。履歴書を見てもあなたの本当にやりたいこと、望むことが見えてこない。人のために働きたいと言うけれども、自分のためには何がしたいのか、という質問から面接は始まりました。以下はその返しを含む内容です。

 

私は自分のためにしたいことはありません。自分がこうして楽しい、と思えることが自分の中で本当に見つからないのです。お金が欲しい訳でも名声が欲しい訳でも何でもない。何に喜びを感じる訳でもないから、せめて自分の働きかけで人を笑顔にする事が出来ていると実感したら、生きている意味を見出せるのではないか。そう考えています。

 

では何故このように考えるようになったのか。それは私の育ってきた過程にあります。

 

勉強もピアノも出来てすごいわね、本当にしっかりしてるよね、、昔から周りの人は皆、私にこう言いました。才能があった訳でもなく、しっかりもしていなかった私はその人達の思いを裏切ってしまう事を恐れ、自分を必死に繕うになりました。勉強は必死で頑張って進学校にいけるように努力しましたし、部活のキャプテンや学級委員長、学校行事の実行委員長等を任され、その度にプレッシャーに負けそうになりながら毅然と振舞っていました。なんだ、こんな子なんだ、とがっかりされたくない。その思いで一心でした。

 

家の中でも、反抗期やその他の失態は何度かしたものの、母が姉に手を焼いている姿を見て、私がこれ以上迷惑をかけまいと我慢し、母にいい顔をして本当の自分を曝けだせなくなりました。不器用で弱かった姉に対して私は要領よく強く生きていける子。そう母は思っていましたし自分でも自分にそう言い聞かせていました。実際は体質もあって精神的に病みましたし、もっと自分の方を向いてほしくてお風呂でポロポロ泣く事もありました。それでも本音は言い出せず今の今まで生きてきて、姉と私の家族内の立場は変わりません。

 

改めて思い返すと苦しいです。家族にはもちろん言えず、親友と呼べる友達はいませんでした。どんなに仲が良くても、自分の弱いところを見せるのが怖くて、がっかりされるのが嫌で、当たり障りのない悩みや人生の話は出来ても自分の本質の部分について話すことは出来ませんでした。

 

自分の主張を殺して周囲を気遣うようになった結果、私は空っぽの人間になったように思います。何したい?何食べたい?と聞かれても「何でもいい」以外に答える事は滅多にありません。時々「たまには決めてよ」と言われることもありますが、長年の習慣で欲が湧き上がらなくなった私には、突然欲を出せと言われても無理な話なのです。前回お話した「自己犠牲による自己満足」も根本はここにあるのだと思います。

 

ここまでお話したことが「本当の私」です。

 

「このままずっと自分を抑え続けて生きるのも一つの選択だと思うし、それを変えれるようにするのも一つの選択だと思う。でもさ、もう我慢しなくていいんじゃないかな」

 

人事の方にこう言われ、今まで自覚有る無しに関わらず色々なことを我慢してきた自分を初めて人に見つけてもらえたように感じ、その時私はたくさんたくさん泣きました。

 

生き方は変えられないと思います。自己主張の仕方は忘れてしまったし、今ではそれが当然となっているのでしんどいと感じることもありません。しかし、本当の自分を知ってもらっていたらまた違うのかなと思い、どういう背景から今の自分がいるのか話してみることにしました。そういうわけで今パソコンと向き合っています。

 

面接を終えて、私が自分のために望むものは「幸せ」なのではないかという結論に至りました。今まで家庭でも学校でも極力自分に向かないように努力してきたベクトルを自分に向けてくれる人がいたら、きっと幸せを感じられるのではないかと思います。簡単にいうと愛されたいということです。自分の想う気持ちが、他でもない自分自身に返ってくるということは本当に本当に幸せなことなのだろうなと、改めて思いました。

 

人に今まで話さなかったことを今こうやってお話したので皆さんにどのように思われるのか正直不安です。こんな私ですが、受け止めいただき、今後もお付き合いいただければ本当に嬉しいです。

 

以上、強がりで寂しがりな私の本質のお話でした。

おしまい。

自己犠牲による自己満足

こんばんは。

 

就職活動とかなんとかかんとかでもう本当に辛い。漠然とした不安と闘う毎日を過ごしておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、前回記事を書き終わる時に決めた今回のタイトルはこちら、「自己犠牲による自己満足」。これまたTwitterでお馴染みの言葉かとは思いますが、どういう意味?と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。今回はこれについて少し。

 

私は自他共に認める自己犠牲型タイプの人間です。自分が少し我慢すればあの人は幸せになれる。とか、ここでこう働くことによって上手く回る。とか、自分よりも他者、それでいいんだ。そう考えて生きていました。ところが何年か前に私は友達にこう言われたのです。

 

「お前って、結局は自分を犠牲にすることで誰かを幸せにしたいとかそういうのじゃなくて、犠牲になってる自分に満足してるみたいな一面もあるんでしょ?」

 

はあ。当初はもう唖然とするというかバカにすんなよ貴様って思いましたし、本当にそんなこと1ミリも思った事がなかったもので何言ってんだこいつ?くらいの勢いだったのですけれど。その時から考え抜いてみれば確かにそうなのかもしれないなとも思い始めたんです。

 

未だに、「犠牲になっている私をみて!!!すごいでしょ!!」と思うことは全くありません。だって世の中犠牲はつきものですし、進んで犠牲になってうまくいくならそうするまでですし、私が失うものなんてたかがしれてますし。でも、周りの人間が犠牲になるやつがいて当たり前だと思うタイプなのか、なるほど君がうまく対処してくれてるんだねと思うタイプなのか、こちら側の人間にははっきりと分かって人間の本質に触れているような感覚になります。なので「さ〜て、誰が気付くのかね〜?」みたいな気持ちがないことはないです。気付いて声をかけてくれる人は人として美しい人だなという風に思います。犠牲がいて当たり前思考の人がでかい顔をしていたら「誰のおかげででかい顔してられると思ってるんだか。可哀想な人。」という風に思います。そういった意味で自分から犠牲になることでそういった評価の対象から外れ客観視出来る立場になるので、自己犠牲による満足感があるかもしれません。

 

自己犠牲とは人間として綺麗なようですごく汚い部分が見え隠れする瀬戸際なのでしょうかね。

 

もちろんいつだって私が犠牲になっている訳ではありません。私も自覚の有無に関わらず犠牲になっている多くの人の側を通って生きていると思います。気付かぬうちにでかい顔の立場になってることもあるでしょう。まあ色々あっていいと思うんです。それぞれの立場に立ってみないと分からないこともありますしね。ただし、一つの視点からものを見れなくなってはいけないですよね。世を上手く回すための役割がその時々であるんだということは知っておくべきだと思います。

 

話がだいぶ逸れてしまいました。思ったことをつらつら書く場所なのだから所詮そんなもん。

 

最後に付け加えておくと、そんな計算して進んで犠牲になっている訳じゃないので疑わないでくださいね。この話は考えてみて後からくっつけた理論的?な話であって、私は気付いたらあれ?なんか知らんけどしんどくない?なんでこんな頑張ってんだっけ?んん?みたいな感じのあんぽんたんなんです、基本。

 

皆様はどんなタイプの人間なんでしょう?自分の本質とじっくり向き合ってみるのも面白いと思うので、お時間ある時に是非。

 

おしまい。